関東地方を襲った地震はマグ二チュード7.9、木造やレンガ造りの建物は倒壊し、多くの人々が倒れた家屋や建物の下敷きになって亡くなった。
しかし、建物の倒壊よりも、その後の火災で亡くなった人が多かったことがわかっている。地震が正午に近かったこともあって、昼食の支度に火を使っていた家が多かったために、地震と同時に各地で火の手があがった。
水道管が破壊されたため、消火活動が進まず、火の手は瞬く間に広がった。また、避難する人々は大八車に家財を乗せて運んだり、荷物を家から運んだりしたため、人だけでなく荷物で道路や避難所が塞がれ、身動きが取れなくなり、消防活動も進まなかったという。
地震と同時に起きた火災は、9月3日の午前7時ころまで、約42時間燃え続け、当時の東京市の約5割、戸数約7割を焼失した。
地震後、東京の公園や宮城前には、多くの市民が避難してきた。その中でも、横網町にある陸軍省被服廠跡地には、多くの住民が避難していた。
陸軍省被服廠の建物が移転した跡地は、大正11年に逓信省と東京市に払い下げられていた。2万430坪余りの広大な敷地を、付近の人々は絶好の避難場所と考えて、家財道具などを運んで避難し、跡地は家財と人であふれていた。しかし、火が周辺から襲い、家財に引火し、その上、折からまきおこった旋風に人々や家財などが巻き上げられ、飛散した。
被服廠跡地には、煙に巻かれて倒れた人や旋風に巻き上げられて墜落した人の山ができ、その山を炎が襲い、多くの人々が焼死したという。
推定約3万8千名の人々がこの跡地で亡くなった。その数は、関東大震災で亡くなった全東京市の人の55%強に達する。
墨田区横網町にある東京都慰霊堂-2011年10月10日撮影 |
震災から、7年経って完成した慰霊堂には、当時一家全滅などで引き取り手のなかった遺骨260個が大骨壷におさめられ、震災で亡くなった5万8千人の霊がまつられている。
また、太平洋戦争中、米軍の無差別爆撃によって亡くなった約10万5千人の非戦闘員である東京市民の霊も祭られている。
戦前は慰霊行事は東京都知事主催だったが、戦後は、政教分離の原則から、民間の団体である財団法人東京都慰霊協会が行うことになった。
慰霊堂のすぐそばには、「復興記念館」があり、震災当時の記録写真や戦災の資料などが展示されている。中には、地震が発生した際、地震の揺れを記録した東京大学地震学研究室の記録紙も展示されている。揺れが大きく針が大きくふれて、用紙からはみでている。また、溶けた釘のかたまりは、地震後の火災の激しさを物語っている。
そんな貴重な資料が数多く展示されているのに、この資料館や慰霊堂を訪れる人も少なく、展示されている絵や資料も、ほこりをかぶっているかと思うくらいくすんでしまっている。
関東大震災や東京大空襲の事実と多くの犠牲を忘れないため、これらの歴史的建造物をもっとよい状態で保存してほしい。そして、もっと、多くの人々にこのような場所のあることを知ってもらい、訪ねてもらいたいものだと思う。
東京大空襲の犠牲者を慰霊する碑-横網公園内 中には、空襲の犠牲者の名簿が保存されている。 2011年10月10日撮影 |
震災の慰霊堂の前には、由来記が書かれている 2011年10月10日撮影 |
吉村昭著「関東大震災」文春文庫:文芸春秋2004年刊
財団法人東京都慰霊協会発行「関東大震災」「東京大空襲の記録」
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