2010年3月16日火曜日

東行田市桜町踏切~秩父鉄道の第4種踏切

 3月14日、再び、埼玉県行田市の桜町踏切をたずねた。 

 この桜町踏切では、2008年9月と昨年12月に事故があり、中学生と保育園児が亡くなった。
 12月の事故直後、秩父鉄道に問い合わせたところ、2008年の事故後、踏切に警報機や遮断機は設置していなかったという。
 昨年12月の事故後に、自転車等が踏切手前でいったん止まるよう、U字型の柵が線路をはさんで両側に3つずつ、あらたに取りつけられた。こちらは、道路管理者である行田市が設置したものだ。

 東行田の桜町踏切については、以前にも書いた。
( http://tomosibi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html )
踏切から見て左側、行田駅方面はカーブしていて見通しが悪いが、右側東行田方面は、線路がまっすぐで、見通しは良い。

 踏切を通る近所の方の話では、桜町踏切から100メートルほど向こうに見える第1種の警報音や踏切の信号を見て、列車が近付いているかどうかを判断すると言う。
 しかし、見通しがよいと思われる直線の線路の方でも、列車は踏切からどのくらいのところを走っているのか、距離感がわからない。
 
 まっすぐで見通しが良いと思われるところでも、踏切入口に立ってみると、意外と列車が近付くのが分かりにくいものだと思った。「遠いと思っても案外近いことがあり、踏切を渡ろうとしてひやっとすることがあった」と、散歩をしていたお年寄りが話していた。

 付近の住民の方の話によると、ここは小学生が登下校に使っていたという。以前は、登校時には、保護者が、踏切に旗を持って立ち、小学生を誘導していたそうだが、12月の事故の後、登下校に使うのを禁止したそうだ。

 付近には、小学校や中学校があり、登下校の際に使われていた。危険な踏切を放置せず、児童生徒が安心して通行できるよう、警報機や遮断機を設置するなど早急に対策を講じてほしい。 

(写真は、桜町踏切 2010年3月14日撮影) 
 

2010年3月15日月曜日

東武伊勢崎線竹ノ塚踏切事故から5年 (3) 

 3月15日、竹ノ塚踏切で事故が起きてから5年がたつ。

 事故現場では、毎年事故のあった時刻に合わせて、足立区長や区議・足立区選出の都議・国会議員や地元住民の方々等で構成する竹ノ塚駅付近鉄道高架化促進協議会が献花式を主催、事故のあった現場で黙とう、献花をする。

 一方、東武鉄道は、この日は、朝早く始発列車の出る前に、現場に献花をしたそうだ。

《参考記事》  (2010年3月16日追記)
冥福祈り再発防止誓う…東武線踏切事故から5年 (2010年3月15日 読売新聞 )
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100315-OYT1T00548.htm?from=nwlb
「危険な踏切ゼロに」 竹ノ塚駅の事故から5年 遺族会で対策訴え (2010年3月16日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100316-OYT8T00083.htm  
 
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五年たっても、現実は変わらない
母が帰らないという現実は変わらない
私たちが、いくら呼ぼうとも、母は帰ってこない

なぜ、あんなところで、無残な最期を迎えなくてはならなかったのか、
なぜ、踏切で事故に遭うのが、私たちの母でなくてはならなかったのか…
誰も答えてくれない

私たちは、最期の時に、母に何一つやさしい
ねぎらいの言葉もかけられなかった
わたしたちは、母の最期のときに、誰もそばにいてあげられず、
母は、自分に大きな塊が、高速で衝撃したことすらも
意識できぬ間に、一瞬のうちに、遠い世界へ旅立ってしまった

自分自身の人生を振り返り、愛する人たちに別れの言葉を
告げることすらできずに、何も分からぬうちに、
巨大な塊に遠い世界へ連れて行かれてしまった母

あなたは今、どこにいるのだろう
あなたは今、どうしているのだろう

子どもらが巣立った後、
まだまだ元気で溌剌として、
父とふたりで老後を楽しんでいたのに、
苦労の多かった人生の終わりに近づいて、
ようやく得た平穏な日々を
誰が突然奪われると予想できただろう
もっと、生きたかったにちがいない
もっと、したいことがあったにちがいない

青く明るい空のかなたへ、問いかける
あなたは、今どこにいるのですか
あなたは、今何をしてほしいですか

2010年3月12日金曜日

東武伊勢崎線竹ノ塚踏切事故から5年 (2) 

  事故から5年がたとうするが、今でも事故当時のことが昨日のことのように思いだされる。

 2005年3月15日、夕方6時ころ私が、仕事を終えて帰宅すると、テレビを見ていた私の子どもが、竹ノ塚で事故があったと教えてくれた。テレビにはライトで明るく照らされた竹ノ塚駅踏切が映し出されていた。
 駅の周辺は騒然としているようで、事故の大きさを物語っているようだった。
昔から危ないと思っていた踏切でとうとう事故が起きてしまったと思い、不安な思いにかられた。

 しかし、この時はまだ死傷者名がわからず、ニュースでは被害者は30歳代と60歳代の女性だと伝えていた。母は事故当時75歳だったから、私は母が事故に遭っているとは夢にも思わなかった。後で実家の母に電話して、事故のことを聞いてみようと思った程度だった。

 夜9時ころ、母に電話しようと思っていたら、父が電話してきた。ふだんは母が電話してくるのになぜ父が…?といぶかしく思っていると、父は「母が事故に巻き込まれたらしい」という。
 母は夕方4時ころ買い物に行ったきり帰って来ないので、父は心配になり、父の方から7時ころ警察に電話した。その時初めて父は、竹ノ塚の踏切で事故があったことを知った。
 
 警察に、母が夕方出たまま帰らないことを話すと、警察が自宅まで父を迎えてきたという。父は「これから刑事さんといっしょに行く、また電話する。弟たちに連絡しておいてほしい」という。
 
 夜9時ころ、父は刑事さんらと実家を出て行ったきり、その後、父からは一向に連絡がなかった。私は自宅から、弟たちに実家に行ってくれるよう頼んで、自分は父からの連絡を待った。
 夜11時すぎ、やっと父から電話があった。「警察で母さんを見たが母さんだと断定できない、確信がもてない。」という。
 私と父が電話でそんな話をしていると、電話の向こうで刑事さんたちだろうか、「指紋が一致しました」と話しているのが聞こえた。やはり母が事故に遭っていた。 

 その後、父が弟たちといっしょに、遺体の確認をして、家に帰ることができたのは、夜中も2時を過ぎていたという。
 
 私たちはもっと早く母の安否を知りたかった。父は、遺体に対面する前に、警察署内で事情を聴かれていたという。そのため遺体を確認するまでに時間がかかり、父は私たちになかなか連絡できなかった。また父は携帯電話を持っていないので、こちらからも連絡ができなかった。

 父が病院にいるのか警察にいるのか、また母はどんな様子なのかわからず、私と弟たちは、とにかく警察に行ってみようと相談して、弟たちが竹ノ塚警察に駆け付けたのである。
 
 私たちも、急なことで何をしていいのか、どこへ聞けばよいのかわからなかった。後になって、母の安否や事故の情報が、もっと早く被害者の家族に伝わるようにしてほしいと思った。
 

2010年3月10日水曜日

東武伊勢崎線竹ノ塚踏切事故から5年 (1)

 2005年3 月15日午後4時51分頃、東武伊勢崎線竹ノ塚駅構内の手動式踏切(第1種、警報機・遮断機あり)で、横断中の歩行者ら十数名のうち4名に、上り準急列車が高速で衝突、2名が死亡、2名が重傷を負いました。
 その中に、私の母もいました。


 この踏切事故は、踏切保安係が遮断機を上げた直後、遮断機が上がったので踏切を横断し始めた歩行者を、時速90キロメートルで進入した準急列車が次々とはねるという悲惨な事故でした。

 事故は、当時、手動で遮断機の上げ下げを担当していた踏切保安係が、踏切詰所の早上げ防止鎖錠装置(急行が通過するときは遮断機を誤ってあげないにようにするロック)を、作業内規に定められた「鎖錠器は、原則として解錠してはならない」という規定に反して解錠し、準急列車が来るのを忘れて、警報音を消したまま、踏切遮断機を上げるという操作ミスが原因で起きました。

 しかし、事故は、単に踏切保安係の偶然の過失のみによって引き起こされたのではありません。東武線へは東京メトロ日比谷線、半蔵門線が乗入し、竹ノ塚踏切を通過する列車が1日900本以上という過密ダイヤになっていました。
 朝夕のラッシュ時には、1時間のうち57分も踏切が閉まったままという状態で、踏切が開くのを待つ通行人や車両で、交通渋滞が起きていました。(開かずの踏切)

 このような深刻な交通渋滞を避けるために、踏切保安係らは、日頃から、安全装置を解錠して、警報機の音を消すという、内規違反の行為を行なって、遮断機を上げ下げしていました。

 踏切を通過する列車が増加するなど、踏切をとりまく環境の変化に対し、事故を防ぐ体制が整備されるべきでした。
 しかし、鉄道事業者は、従来どおりの手動踏切のままで、熟練した踏切保安係の経験と勘にたよった遮断機操作によって、開かずの踏切を運用していました。
 踏切保安係の元同僚が、公判で、「いつ事故が起きるかもしれない、ひやりとした経験がある」と証言したように、現場の係員らは、踏切が危険だと感じていたのでした。
 長い間、何重にもとられていたはずの安全装置が働いていないという事態が続く中で、事故は起くるべくして起きてしまったのです。

 
 事故から、半年後、手動で遮断機を操作するのは危険だということで、踏切は自動化されました。
踏切は、遮断機が上がったと思うと、すぐまた警報機が鳴りだし、急いで渡らねばならず危険なため、踏切の両側には、警備員が常時配置され、踏切を渡る人を誘導しています。
 事故から、1年後には、踏切横に駅の上をまたぐ形で歩道橋が設置されました。自転車が渡れるようにスロープがつけられ、お年寄りや障害のある方が渡れるようエレベーターも設置されました。
 
 しかし、踏切に歩道橋ができたからといって、開かずの踏切であることに変わりはありません。
 鉄道の高架化によって一刻も早く、踏切がなくなること、そして二度と同じような事故が起きないことを願わずにいられません。
 
 
 
写真は、竹ノ塚踏切。遮断機などは自動化され、歩道橋が設置された。
警備員が踏切の両側に配置されている。
(2009年8月撮影)

2010年3月9日火曜日

日比谷線脱線衝突事故から10年

 2000年3月8日、乗客5人が亡くなり、64人が負傷した営団地下鉄(現在は東京メトロ)日比谷線脱線衝突事故から、10年がたった。事故から1年後、東京都目黒区の事故現場の線路わきには、慰霊碑が建てられた。

 事故は3月8日午前9時1分ころ発生。下り電車の最後尾車両が中目黒駅近くのカーブで脱線し、対向の上り電車の5、6両目と衝突した。
 事故について、当時の運輸省鉄道事故調査検討会は、車輪にかかる荷重のアンバランスなど複数の要因が重なり、車輪がレールに乗り上げて脱線したとする報告書をまとめ、鉄道事業者に安全対策を指示した。
 
 遺族は、取材に対して、事故を「忘れないでほしい」と話している。私たちは、いつも列車が安全に目的地に向かって走っていくと信じて乗車する。その信頼を裏切らないよう、 鉄道事業に関わる方々には、事故を忘れることなく、安全な輸送を最優先に、日々の業務に取り組んでほしいと思う。


左の写真は、日比谷線脱線衝突事故の慰霊碑。