田村孝行さん夫妻の息子さん健太さん(当時25才)は、震災当時、七十七銀行女川支店の行員で、屋上に避難して津波にさらわれ、半年後に発見された。今回、田村さん夫妻に女川や石巻を案内していただいた。
七十七銀行女川支店で、津波襲来当時、支店の行員たちは、走っても1分という近くにある町の避難場所である堀切山に避難せず、屋上に避難して津波に呑まれた。12名が流され、今も8名が行方不明だという。
町の防災無線が「大津波警報が発令されました。至急高台へ避難してください」と叫ぶ中、なぜ、女川支店の人たちは避難場所に避難しなかったのか、なぜ高さ10mの二階建ての支店の屋上だったのか? 勤務中であるため、上司である支店長の「屋上へ」という指示に従わなくてはならなかったのなら、銀行に責任はないのか?
数々の疑問がわいてくる。誰でも「町中の人たちが避難している高台へなぜ避難しなかったのか」疑問に思うだろう。支店から100mほどにある堀切山は、国土交通省が、山を削って海を埋め立てをし、山には町立の病院を建て、災害時の避難場所にした。一石三鳥の公共工事と言われたそうだ。
そんな立派な避難場所があるのに、なぜ、避難場所を屋上に選らんだのか、疑問に思う。
そして、避難場所である堀切山の中腹に立って驚いたのは、何よりも、七十七銀行女川支店が、目の前にあったということだ。今は取り壊されて跡形もないが、銀行があったとされる場所は、目と鼻の先だった。
③の写真の中ほどに茶色い箱のようなプレハブが見えるが、このあたりに七十七銀行女川支店があったという。
避難場所である堀切山は、女川町立病院があり、高さ16mにおよぶ津波はこの病院の1階まで押し寄せてきた。
①田村さんが、病院の柱にある、津波が到達した印を示してくれた。
女川町では、津波は高さ16mに及んだ。2017年4月8日
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銀行支店の屋上は10mほどしかない。もし、それ以上の津波がくれば、逃げ場がない。堀切山にも津波は襲来したが、その上の神社まで避難して、600名の町民は命を守ることができた。
阪神大震災以降、企業の事業継続計画やマネージメントについて、策定が進んでいると聞く。
ぜひ、企業の従業員の命をどう守るのかという点に重点を置いて、計画を練ってほしいと思う。
②女川町立病院の駐車場。この病院の1階まで、津波がきた。 |
③堀切山の中腹、町立病院から女川支店方面を見る。
下には、津波犠牲者の慰霊碑がたつ。2017年4月8日
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④堀切山の向かい側にも避難できる場所がある。
説明するのは田村弘美さん。 2017年4月8日
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⑤慰霊碑の前で、女川支店の場所を説明する田村弘美さん。
2017年4月8日
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⑥慰霊碑のある高台から女川湾を見る。 2017年4月8日 |
女川駅の前には真新しい飲食店が並ぶ。奥に見えるのは女川町駅。
このような景色は、まだ町のほんの一部。 2017年4月8日。
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駅前の道路の向こうを見ると、津波に倒れされた交番が、横倒しのままだ。
2017年4月8日
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《参考》
「七十七銀行女川支店被災者家族会有志」 https://www.facebook.com/77onagawa/
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