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2011年7月14日木曜日

東日本大震災から4カ月~見えない復興への道筋

  3月11日午後、長く大きな揺れを感じた。地震の直後、テレビを付けると、東北地方で大きな地震が起きたと知らせていた。

 津波警報が東日本の広範囲に出され、テレビでは、アナウンサーが、津波が来るので警戒するよう呼びかけていた。

 大きな地震の後、毎日余震が続いた。地震後、私の住むところでは、停電は免れたものの、計画停電がいつどのように始まるのかわからず、私たちは、食料品や非常持ち出し品の用意などに追われた。

 その後の報道は、被災地の様子を刻々と伝えていた。しかし、私は、新聞を開いて、被災地の惨状や津波の恐ろしさを伝える記事や写真をまともに見ることができなかった。読むのが、苦しく辛く、言葉が出なかった。何日も新聞を放置して、新聞は山積みにされた。

 その新聞をこのごろやっと、以前のように開いて読めるようになった。
そこでは、被災された方々が、自分たちの大切な人のことを語っていた。
 
 年老いた祖父母を助けようと、家に戻ろうとして、津波にのまれた高校生の息子のこと。
 小さな子たちを乗せて一刻も早く、保護者の元へ子どもを返そうと、道を急いでいたに違いない園バスの運転手さん。
 先生といっしょに高台に避難しようとしていた小学生たち。
 体の不自由な老いた親を車に乗せて避難しようとしていた人たち。
 町の役場で、防災無線に向かって、町の人たちに避難を呼び掛けていた職員の方達。

 平穏に暮らしていた善良な人々を、一瞬のうちに連れ去った津波。
家族や友人や知人たちが、今も、大切な人の姿を必死に探している。

 山のように積まれた品々の中に、人々の思い出が重なりあっている。その中を、大切な人の思い出を、少しでもと、探している人たちがいる。
 重機の免許を取得して、自ら重機を運転して、行方の知れない小学生の娘を探す母。
手と手を取り合って、あの日、幼稚園のバスの中にいたはずの子供たちを探す母親たち。
焼けただれたバスの中から、服の一切れでも…と、探す。

 被災された方々は、突然大切な人々を失い、生活の場を根こそぎ奪われて、生きる希望と意欲を失っておられるに違いない。

 国や自治体は、早く町や村の復興のビジョンを示し、住民が町に帰れるように、再建に全力を挙げてほしい。
  

 事故を起こした原子力発電所のある県に住む幼い子たちは、放射性物質を避けて毎日部屋の中で遊んでいる。梅雨は明けて、空は青く晴れているのに、洗濯物は家の中に干されている。

 窓を閉めて、長袖を着てマスクをしたまま、校庭で遊ぶことも出来ずに、教室で遊ばなくてはならない小学生の姿を見ると、この原発事故がなぜ起きたのかと、怒りを覚える。
 なぜ、この子たちが、猛暑の夏に、クーラーを付けることも出来ずに、汗だくになって、教室の中で一日過ごさなくてはならないのかと。

 難しい原子力発電所の事故の収束に向けて、日本中の技術者や研究者の英知を結集して、一刻も早く、確かな収束への道筋を示し、対策を講じてほしい。

《参考記事》
「震災の死者1万5547人 不明者は5344人」2011/07/10 17:58 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011071001000469.html

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