6月25日、美谷島邦子さんによる「御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年―」が刊行された。表紙には、事故から三日後、美谷島さん夫妻が御巣鷹山の尾根に登った時の写真が使われている。息子の健ちゃんを探しに、尾根に登り、地面に崩れる美谷島さんとたちつくす美谷島さんの夫。壮絶な事故の現場から一歩を踏みださなくてはならなかった美谷島さんら遺族の25年はどのようなものだったのだろうか。
著者である美谷島邦子さんは、日航123便墜落事故で、9歳になる二男の健くんを失った。今年の8月12日で、その事故から25年になる。
事故直後、事故の情報が十分入らない中で、藤岡市の体育館で必ず健君を連れて帰ると待ち続けたこと、事故直後夫と二人で御巣鷹の尾根を登った時のこと、遺体を確認して荼毘にふした時のこと、事故の原因を究明し事故の再発を防ごうと日航幹部らを告訴した経緯など、事故から現在まで、美谷島さんら遺族が何にこだわり、何を求めてきたのか、8・12連絡会の事務局長をつとめてきた美谷島邦子さんが、遺族の25年を振り返った。
辛い遺体確認作業をふりかえった部分は、私も涙をこらえられなかった。想像を絶する、口にするのもつらい、おそらく筆にすることもためらわれたにちがいない事故直後の現場のようすや体育館での確認作業。
しかし、なぜ、今、美谷島さんは日航機墜落事故を書き記すという大変な作業に挑まれたのだろうか?
母がこの世を突然去ることになった踏切事故から5年しかたたない私には、この答えを出すのは難しいけれど、あえて今思うことを書くとしたら、
それは、520人もの方々の尊い命が、なぜ、思いだすのも辛く痛ましい姿で、突然、死を迎えなくてはならなかったのかを明らかにしたいという思い、こんなに無残に命と安全がないがしろにされてはならないという思いが、幾年月もの間、美谷島さんが息子健ちゃんと御巣鷹山とのことを書き綴るエネルギーになっていったのではないかということ。
美谷島さんは、大切な人を失った悲しみは乗り越えるのではなく、「悲しみに向き合い、悲しみと同化して、亡くなった人とともに生きていく」のだと書いている。
長い間、追い求めてきた健ちゃんが美谷島さんの心に入ってきたとき、健ちゃんは美谷島さんと生きることになった。事故から5年たったその時のことを、美谷島さんは本書で鮮やかに書き記している。
私の心の中に母が生きる日はいつになるか分からないが、悲しみと同化できる日がくることを信じて歩いていこうと思う。
「空の安全」を求め、同じような事故を繰り返させないことが亡き人たちの命を生かすことだと語り続けてこられた美谷島さんら遺族は、事故直後から日航に残存機体や遺品の保存をもとめてきた。事故から20年以上たって、ようやく日航は、外部の有識者の意見もとりいれて「安全啓発センター」をつくり、社員への教育と事故を風化させないため、遺品や機体の残骸の保存・公開に踏み切った。
美谷島さんは、御巣鷹山に行くと、目に見えないものがたくさんある、子どものころに触れていた人情や助け合いが見えるという。25年間、いっしょに御巣鷹山に登ってきたすべての人々と心をつなげ、ともに「空の安全」を願って、「安全の文化」を高めていきたいとしている。
そのために、私たちは美しい御巣鷹山を守っていきたい。それが、大切な人たちを奪った事故を忘れず、事故を防ぐことにつながるはずだから。
《参考書評》
「一万三千年の悲しみ、そして再生」 柳田邦男 (新潮社「波」2010年7月号)
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/325421.html
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